山田胡瓜@kyuukanbaのブログ

漫画のこととか、おもったこととか。

飛行機、アニメ、インターネット――みんな「夢と狂気の王国」なのかもしれない

スタジオジブリの映画制作現場を追った、砂田麻美監督のドキュメンタリー映画夢と狂気の王国」を見てきた。ジブリの情熱の片鱗を見れた気がした。「かぐや姫の物語」の映像特典(DVD&BD)ももらえて、大満足でした。

 

ネットでは「夢と狂気」という題名に対し、「狂気の描写が少ないのでは」という意見もある。映画を見終わってしばし考え、この「狂気」というのは、一見しただけでは分からないような場所に潜んでいるものなのだと思った。

 

夏に「風立ちぬ」を観たあと、縁あって某雑誌のジブリ特集に座談会要員として呼ばれ、「ジブリと狂気」みたいなお題が出た。「奥さんほったらかして次郎はヒドイやつだ」とか、「夢の為に戦争の道具を作るなんて狂気じみてる」といったロジックは思い浮かびつつも、なんとなく、そうじゃないような、釈然としない気持ちが残った。その後、監督のインタビュー記事などを見るにつけ、その思いは深まった。

「アニメーションを作っている人間に罪がないと思っているんですか」

 

北海道新聞の取材で宮崎さんは、「なぜ零戦を造った人間なんかを取り上げるんだと言われるが、ではアニメーションを作っている人間に罪がないと思っているんですか」と言っている。そして、「夢と狂気の王国」でも似たような話をしている。

 

「いいこと」というのは、時と場合、あるいは規模など、何かのパラメータが変わったりすると、「いいこと」と言い切れないものに変わることがある。場合によっては、「狂気」といえる何かになることもある。「戦闘機を作るなんてダメ」というのは分かりやすいけど、一方で分かりにくい狂気に対して、我々は知恵を巡らせているのか。自らの生活や行動が、狂気と無縁となぜ言い切れるのか。そういうことを、宮崎さんの言葉を聞きながら、「夢と狂気の王国」を見ながら、考えた。

 

 「もののけ姫」の公開時のインタビューか何かで宮崎さんは、「農耕」という人類の行為が「自然破壊」でもあるとしたら、我々は自分たちをどう捉えればよいか、といった問題意識を語っていた。土と一緒に生きればハッピー、と単純に考えるのは簡単だけど、本当にそうなのかどうか、よく分からない。

 

一見正しいように見える、一見素晴らしく見える何かが、狂気をはらんでいる。なんだかこれは、インターネットを見ていて自分が時おり感じるモヤモヤ感に、通じるところがある。

 

 

 

夢と狂気の王国」で一番心に残ったのは、「アニメーションの筋肉は意志だ」という宮崎さんの言葉でした。