真偽不明の記事をあっさり信じてしまう思考の流れとネットの関係を考えてみた
雑誌の売り場に「ムー」が置いてあったら、読むかもしれない。
週刊誌に紛れ込んでいるマユツバっぽい記事も、まあ面白半分に読むかもしれない。
でもそれを、「あれって〇〇なんだってさ!」って人に教えるかというと、教えないと思う。教えるにしたって、「まあ週刊誌の記事なんだけどさ」みたいな枕詞がつく。多くの人がそうだったと思う。
ところが、Twitterやfacebook、ポータルサイトのニュースコーナーといった、1つの情報プラットフォームに玉石混交のニュースが流れこんでくるネットでは、この常識がうまく働かない。
・Togetter「大島で報道ヘリがサイレントタイムを邪魔したというの本当か?」
真相は知らないけど、SNS上のコメントを信じて書いた記事だと思う。で、こんな記事がまた出る。
・「報道ヘリが伊豆大島の救助活動を邪魔している!」 ネットで拡散された情報はデマだった?(J-CAST)
・大島でヘリが救助の邪魔しているという情報は「デマ」だったことが判明(秒刊SUNDAY)
ガジェ通の記事がバズった後に、J-CAST、秒刊とコンボが続くいう、いい感じの展開にワクテカせざるを得ないわけだけど、J-CASTは電話で役場に確認した上でなお「デマだった?」と自信ない感じを漂わせているところが紳士的だ。で、その記事などを引用してコタツ記事を書く秒刊が「判明」と断定してくるあたりが、すごい縮図っぽくて香ばしい。
紙だったら「東スポは東スポ」って分かった上で楽しんでいた。でもTwitterとかfacebookとかでシェアされるニュースは、「〇〇発の情報」って感じが薄い。いろんな記事タイトルが飛び交って、どこの記事だかよく分からないまま、人々は興味の惹かれるままにクリックして記事を読む。「読みたい記事」は自分の意志で選んでるんだけど、「読む雑誌」はあんまり選んでないし意識していない。で、「この媒体は怪しい」という身構えがないまま怪しい情報に触れてしまう。
もちろん、媒体を意識して身構えている人もいると思う。でも、結構な割合で、記事の中身で頭がいっぱいになっちゃう人がいる気がする。恥ずかしながら、自分もそういう時がある。面白さとかセンセーショナルさに気が奪われて、大事なことがすっぽぬけちゃうのだ。いろんなWebサイトの情報がたくさんタイムラインに入ってきて、いちいち信用度を判断するのが面倒なのも影響している気がする。
真偽のわからない情報を拡散するメディアというのは、タチが悪いことに、「真偽は分からないのですが……」という雰囲気を記事に盛り込まないケースが多い。そうしたほうが、読まれるからだ。単純にライターが馬鹿なケースもあるかもだけど。まあとにかく、ニュースぶっていろんなことを断定してくる。
そんなわけで、そろそろ、「その報道はどこのメディアの報道なのか」をよく考えた上で読んだりシェアしたりする、という当たり前といえば当たり前のことを肝に銘じるべき時代になったんではなかろうか。
変な情報をつかまされる場所っていうのは増え続けていて、実にカジュアルな感じで僕らの周りに寄ってきている。アフィブログ、胡散臭いミドルメディア、キュレーションサービスに巣食う悪質キュレーター……こういうのが、よく分かんない情報をコトコト煮込んだりソースロンダリングをしたりして記事を作る。それがソーシャル上に放流されたり、立派なポータルのニュースコーナーにヒョコッと現れたりする。
ライトなメディア、うさんくさいメディアには、ライトなりうさんくさいなりの良さや楽しさもある(もちろん根っからのクソメディアもあるけど)。サイトの属性を分かった上でネタを消化するんであれば、楽しい。分かった上で適切なアクションができるといいなぁと個人的には思う。
というわけで、自分が頭に置いておきたいなというポイントはこんな感じです。
・「頭は一般人、体はニュースサイト」みたいなメディアが今、いっぱいある
・そういうメディアの記事が、SNSなどを通じて、「ニュースでござる」って感じで自分たちの前に現れる
・なので、記事を読んで信じる前に、そのサイトがどんなサイトなのかに、思いを巡らせる
と、インターネットについていろいろ考えたりして、それを漫画にしているのがこちらになります。