山田胡瓜@kyuukanbaのブログ

漫画のこととか、おもったこととか。

「かぐや姫の物語」を観る前に「竹取物語」を読んで思ったこと

「かぐや姫の物語」の罪と罰ってなんだろう

 

11月23日に高畑勲監督の「かぐや姫の物語」が公開される。

 

元から楽しみにしていたけど、劇場で予告編を見て軽く泣いた。「絶対に見る」と心に決めた。アニメーションの幸福感というか、絵が動くということの喜びにあふれている作品に思えた。あれがセルアニメだとしたら、どうやってつくったのかぜひ知りたい。

 

最近は徐々に情報が増えて、かぐや姫が本当に美しすぎることとか、高畑監督が劇中歌の制作過程で初音ミクを使ったとか、いろいろ分かってきて楽しい。で、サイトを見ながらぼんやりと考えるのは、映画のアオリにも使われている「姫の犯した罪と罰」ってのは何なんだろうなぁということだ。

原作「竹取物語」を読んでみる

 

竹取物語はご存知のとおり、竹から女の子が生まれる! → 美人すぎて求婚者続出! 帝も参戦! → 結局誰ともくっつかず、月に帰ってしまう――っていう話の流れがあるのだけど、かぐや姫が地球に下ろされた理由として、“罪を犯した償い”という設定があるようだ。かぐや姫は、何らかの罪のために卑しい人間界に下ろされ、償いの期間が満了したので月に呼び戻されてしまったというわけ。

 

姫が犯した罪がなんだったのかは、作品には書かれていない。高畑監督はそこに目を付けて、姫の罪と罰を想像することで、かぐや姫の心の変化を読み解き、何かしらのメッセージを込めようとしているようだ。

 

恥ずかしながら自分はこういう内容をすっかり忘れてて、改めて竹取物語を読んだのだけど、確かにそうだった。そして、改めて読んだことで、竹取物語における「罪と罰」、とりわけ「罰」の意味するものは、この物語の重要なテーマをはらんでいるように思えてきた。

 

かぐや姫は罪を償うために地球に下ろされたのだけど、本人は月に帰りたくないようで、運命を悲しみ、迎えが来ても月に帰るのを嫌がる。

 

あの月の都の人は、たいそう華やかで美しくて、老いることは実はないのです。思い悩むこともありません。そのような所へ戻りましても、殊更にうれしくもございません。(サイト「古典に親しむ」の竹取物語現代語訳より

 

桃源郷なんかゴメンだね!とでもいいたげなセリフが、想像をかきたてる。きれいはきたない。水清ければ魚棲まず。何事も平穏で善良で悩みすらないパーフェクトワールドは、人の世を知ったかぐや姫にとって退屈で寂しい世界だったのかもしれない。もちろん、爺さん婆さんとの別れの悲しさとかも、あると思うけど。

 

帰りたくないかぐや姫と対照的に、月からの使者は「お勤めつらかったでしょう、さぁさぁシャバに戻りましょうね」といった感じ。彼らにとって地球は穢れた苦界なんですね。

 

面白いのが姫さま昇天のラストシーン。かぐや姫は使者から「着ると心が変わってしまう羽衣」を着せられてしまい、それまでの憂いや地球への親しみを忘れ、月人に戻ってしまう。そんな展開だったのか……全然覚えていなかった。変わってしまった姫様の喪失感が激しすぎて拙者かなり切なくなったでござる……。なんかこういう展開ってアニメでありそうだよな、うん。

「罰」について、なんとなく思ったこと

 

原作に触れて思ったのは、かぐや姫の罰というのは、月にはない「思い悩むこと」を味わう――つまり「心」を持つってことだったのかなって気がしてきた。

 

思い煩いを感じるのは心であって、月人は達観しすぎてそういう心がないために、月の環境では罰にあたる苦行を与えられない。だから人間に生まれ変わらせて、思い煩いを味わってもらい、刑期が終わればまた月人に戻す――そんなストーリーを想像したりした。

 

なんというかこの予想が皮肉なのは、かぐや姫が味わった思い煩いが主に「月に帰りたくない」だったってことだ。かぐや姫にとっては月人が「罰」として与えた「心」そのものが捨てがたいものになったというわけだ。

 

そう思うと、この竹取物語という作品が、心をもった生き物への賛歌のように思えてくる。マンガ版ナウシカが新人類を否定する感じ。じゃあ罪は一体なんだったんだろうと考えるんだけど、よく分からない。

 

所詮ニワカの感想なので、「そんな単純じゃねーんだよ!」って怒られるかもしれないが、まあとにかくそんなことを考えました。