山田胡瓜@kyuukanbaのブログ

漫画のこととか、おもったこととか。

シンエヴァと自分と父親のこと

いろいろなことがあり、気持ちの整理と、備忘録として、久々にブログを書こうと思う。

シンエヴァの感想文でもあるので、ネタバレが嫌な人は読まない方がよい。

 

 

 

 

新連載の単行本作業をなんとか終え、最新話の原稿を締め切りギリギリで完成させ、今しかないと思い、4月2日、シンエヴァを劇場に見に行った。

 

いくつかのシーンで僕は泣いた。人が死ぬ場面と、遠く会えない家族を思う場面という、エヴァでなくてもあるようなシーンだった。僕は1才に満たない子供がいて、父親が末期癌で床に臥せっており、家族について、命について感傷にひたることが増えていた。

 

父親が死にかけているのに、自分は映画を見ているんだなという考えが、途中で頭をよぎった。翌日、実家に出向き、父親に孫の顔を見せた。父親は寝ている時間が増え、なかなか満足にコミュニケーションできなくなっていたが、その日は二度起きて、2回も孫を見せられた。口と目で父親は孫をあやし、僕が「また遊びに来るね」と伝えると、うなづいた。落ち着いた様子で、僕はまた父に会えるつもりで家を後にした。

 

そして、その日の夜、父親は逝ってしまった。

 

再び実家に戻り、打ちひしがれている中、ラジオで僕の漫画を特集してくれる日だということを思い出した。親が死んだというのに、物事はいつも通り進み、僕もまたその流れの中で、何事もないようにtwitterで告知をした。仕事だからという思いと、何をしているんだろうという思いが、ないまぜになっていた。開いたtwitterのトレンドに庵野さんがいた。シン・仮面ライダーの制作が発表されたからだった。

 

「今日だったか」と思った。多くの人には信じられないと思うが、僕は庵野さんと3年前に知り合い、作品に少しだけ関わらせてもらっていた。

 

庵野さんは僕の作品を面白いと言ってくれた。特に一話完結からストーリー型に転向したシリーズ二作目を気に入ってくれ、帯を書いてくれた。このシリーズは、物語の終わりが近づくにつれ、様々な制約、何より僕の能力不足から、作品と向き合うことが辛くなり、立ち止まりたい、放り出して逃げたいという気持ちが幾度となく沸くようになっていた。そんな中、庵野さんはメールの折に「今月も面白かったです」と感想を添えてくれた。その一言に僕はとても救われた。最後まで楽しんでもらえたかはわからないが、とにかく何とか作品と向き合い、終わらせることができた。「行き先は考えてはいるんですけど、ロードムービー的になってしまって。次どうなるかわからない」みたいなことを僕が言うと、庵野さんは微笑みながら「ええ。ええ」と言っていた。連載が終わった後、「僕は失敗しました」と言うと、やさしくウンウンとうなづいていた。僕は漫画家の友人が少なく、住んでるエリアが離れているのもあって、創作について話せる機会が少なかったから、そんなやりとりがとても貴重で、癒しだった。

 

 

自分が作品を描く立場になって、僕はエヴァのことが以前より分かるようになった気がする。自分の表現にも有形無形の影響を感じるようになった。というより、自分のやろうとしていることを、エヴァは20年以上前にやっていたんだと思った。人の願望やエゴが技術と交わり、発展した先に何があるのか。ヒトはヒトでなくなるべきなのか、そうでないのか。手塚さんも宮崎さんも、そういうところに足を踏み入れていた。庵野さんも、その流れの中にいるということに、僕は遅ればせながら気がついた。こうして僕は、以前よりエヴァが好きになった。だから庵野さんがどんな風に作品を終わらせるのか、劇場で見たかった。

 

僕は庵野さんから「自分は大人なんかじゃない」「大人はアニメや漫画をやらない」と何度か聞かされた。僕から見ると庵野さんもモヨコ先生もとても大人に見えるのだが、そうではないそうだ。でもシンジくんは成長し、大人になった。シンジくんが大人になることでエヴァは終わった。

 

大人とはなんだろう。庵野さんと知り合ってから僕は時折それを考えるようになっていた。エヴァを見終えて、父が去った今思うことは、大人とは、自分以外のものを守り、背負い、受け継ぎ、次へと託そうとする、そういう力、運動なんじゃないかということだ。家族的、社会的な生き物になる、とも言えるかもしれない。

 

だとすれば庵野さんはやはり大人だ。なにせ会社を背負い、社員の暮らしを守っているのだから。もちろんそれは相補的な関係ではあるだろうけど、一番の重圧にさらされているのは庵野さんだろう。庵野さんには子供の部分が強くあるというだけで、大人の部分がないわけでは全然ない。いい仕事がしたいために、大人を習得した子供。大人にならざるを得なかった子供。そんな感じがする。

 

受け継ぎ、次へと託すというのも、庵野さんの作品や活動から強く感じることだ。シンエヴァでも、随所に自分を形作ってくれたものへの感謝と敬意を感じる。自分が膨大な過去の引用で成り立っているという創作者の悩みの先にある、「捨てるのではなく返す(還す)」ための表現。未来へと繋げるための解体と再構築。

 

そうした運動は、生命の営みそのものともいえる。互いのdnaの解体と再構築によってうまれる子供。死というシステムも、この解体と再構築を支えるために存在しているように僕は感じる。

 

この世界は、残るものが残り、残らないものが残らないという単純な仕組みがある。より残るものが残った結果、変化することでより長く存続するという禅問答のような営みを、僕らの生命は抱えることになった。そして、そのダイナミズムは表現においても価値を持っている。変化しながら受け継がれ、親から子へと続く情報の旅が、生命の営みであり、表現の営みだと思う。

 

僕は父親の子供であり、その情報は僕の子供へと受け継がれた。父には会えなくなってしまったが、その願いと呪いはこの世界にまだ残っている。ゲンドウは最後、シンジの中に探し求めた最愛の妻を見つける。僕は子供の立派な眉毛に父を感じ、つぶらで真っ黒な瞳に妻を感じている。

 

同じように僕は宮崎駿のチルドレンであり、押井守のチルドレンであり、庵野秀明のチルドレンでもあるだろう。そうして間接的に彼らの親や祖先の願いや呪いを受け継いでいるのかもしれない。世界はそんな継承で溢れているように、今は感じられる。

 

庵野さんは、数々の素晴らしい作家の子供であり、今となっては数々の作家の親になった。作家に限らず、いろんな人の親になった。そのことは、庵野さんを単なる子供でいさせてくれなかったはずだ。トウジがそう語ったように。

 

だからこそシンジくんは大人になり、第三村が登場し、新しい世代の誕生が描かれたのではないかとも思える。そうした生命の営みを信じるからこそ、エヴァは終わるとも思える。

 

これからもこの先も、形を変えながらエヴァという情報のかけらは世界を巡り、世界を変えて行くだろう。僕も沢山の親からもらったものを、世界へと還していきたい。家族を得て、家族を失った漫画家として、そう思う。