山田胡瓜@kyuukanbaのブログ

漫画のこととか、おもったこととか。

宮崎駿が宮﨑駿として描いた「少年」ーー「君たちはどう生きるか」感想

ネタバレありなので、知りたくない人は読まないでください。

 

 

 

 

 

 

 

君たちはどう生きるか」を観た。

 

ジブリや宮崎さんの自叙伝的な側面については、書くのはやめておこう。

 

僕が劇場を出て、しばらく考えて思ったのは、

宮崎さんが、最後の最後に「理想的な主人公」から脱却しようとした、ということだ。

 

「人に言えない恥ずかしいことも内面にいっぱい抱えている」少年像を、宮崎さんは描こうとしたという話もあるので、多分そうなのだと思う。

book.asahi.com

 

 

 

 

作中では「悪意」が重要なキーワードとして登場する。

 

悪意のある世界で、悪意を持った1人の人間として生きることを、主人公の眞人少年は決断し、異世界から現実へと帰っていく。

 

少年の悪意とはなんだろうか。

「頭の傷」がそれだと眞人少年は言う。

 

同級生との喧嘩のあと、眞人は自分の頭を石で傷つけ、わざと血だらけになり、金持ちの親の怒りを喧嘩相手や学校に向けさせる。

「転んだだけ」と口では喧嘩を否定しながら、実際には、財力を持っている親を通じて復讐を果たそうとする意志がある。

 

風立ちぬの序盤とシチュエーションは同じだが、少年像は明らかに違う。

無垢で純真な少年ではないということだ。

 

 

そういう視点で母親を失った眞人の気持ちをトレースしてみると、

僕にはある悪意というか「人に言えない恥ずかしいこと」が思い浮かぶ。

 

それは「新しい美人のお母さんを、お母さんとして受け入れたい」

 

という気持ちだ。

うがった見方だろうか。

 

父親の再婚相手であるナツコは、

死んだ母親の妹で、母親に似ていて、とびきり美人で、お腹に弟を宿している。

眞人は死んだ母親を想っており、再婚相手には当然のように距離感を出してくる。

 

しかし、同時に眞人は新しい母親に惹かれているようにも見える。

 

母を蘇らせてくれるはずの異世界の旅は、早々にナツコを取り返すための旅へと変わる。

「お父さんの好きな人」といいながらも熱心に探し、産屋のナツコから「大嫌い」と言われるや「お母さん」と叫ぶ。

 

死んだ母をいつまでも思い続け、別の存在を拒否するという理想と、

寂しさを埋め合わせてくれる、新しい存在を受け入れたい、受け入れなければ自分の居場所はないという悪意。

 

そのせめぎあいというか、両方を持った自分という人間を受け入れる場として、異世界が機能していたように思う。異世界ではすべてを知った超越的な死んだ母とも出会い、彼女から最大の肯定を与えてもらった上で、ナツコとともに現実へと帰るのだ。

 

人間の「度し難さ」を常に語る宮崎さんだが、

一方で宮崎作品において、それは専ら主人公以外の人物たちが担うものであり

観客の依代である主人公は、良心的で理想的な人間像を備えていた。

少年少女は、千尋のような頼りなさはあったとしても、

未来への希望を担うイノセントな存在として

「曇りなき眼で見定め決める」存在として、輝いていた。

 

それは、自らの内の「度し難いもの」を自覚する宮崎さんのコンプレックスの裏返しでもあったのだろう。

 

今回、宮崎さんは、「曇り」を抱えたまま主人公がジブリの世界を生き抜くことにチャレンジした。凡庸で人間的な悪意も、純真で立派な理想も、どちらかだけでは生きられない。それらを共に抱えながら生きようというテーマを、「世界」や「群れ」に仮託するのではなく、主人公という「個人」の中で表現しようとしていたと、僕は感じた。

 

それは、過去のジブリらしい主人公を否定するわけではない。

そうしたものへのあこがれは眞人にもあり、

だからこそ眞人は依然としてジブリ主人公らしさも持っているのだ。

 

とあれこれ考えて文章にしてみると、そういう気がしてくるのだが、

観た第一印象を正直に言えば、分かりづらかった。

 

演出として内心がかなりあっさり表現されていて、

一方で見慣れたジブリ主人公らしさも発揮されるので

ジブリを見慣れている僕は、よけいに人物像が捉えにくかったのかもしれない。

 

だが、本当は、シンジ君並みのうじうじさ、内面表現があってもおかしくなかったのだろう。

僕は、鈴木さんがその方向性を修正したんだと思っている。

 

 

 

 

正直に言えば僕は、修正されないバージョンが見たかった。

実はそのほうがエンタメとしてもわかりやすくなっただろうし、

君たちはどう生きるか」の本に出会った衝撃や

後半のカタルシスの感じ方が

結構変わったのではないかと思っている。

 

ただ、この作品の結末を見てしまえば、言うのが野暮になってくる。

 

宮崎作品は宮崎さん一人では生まれ得ないものだ。

悪意を持った人間のぶつかり合いによって生まれるものだ。

友と共に歩まなければ、ジブリは生まれ得ないのだ。

 

そう受け入れる気持ちが湧いてくる作品でもあった。

Kindle版「バイナリ畑でつかまえて」を出しました

なんという久々の投稿……。

 

実は発売から1週間以上経っているのですが、一応Kindle版「バイナリ畑でつかまえて」を紹介しておきます。

 

バイナリ畑でつかまえて

バイナリ畑でつかまえて

 

 

「ネットの片隅にこんな作品もあるんですよ…」という気持ちで出したのですが、想像以上にたくさんの人に買っていただき、かなりビックリしています。どんな人がどういう経緯で買ってくれているのか知りたいわけなのですが、Kindleの売上げダッシュボードは細かいこと何もわからんので見当が付きません。

 

この本はITmedia PC USERというWeb媒体で無料公開している連載をまとめたものなのですが、漫画雑誌を経由しなくてもやりようによっては売れるということが分かり、勉強になりました。

目指せ2巻……いつになることやらですが。

飛行機、アニメ、インターネット――みんな「夢と狂気の王国」なのかもしれない

スタジオジブリの映画制作現場を追った、砂田麻美監督のドキュメンタリー映画夢と狂気の王国」を見てきた。ジブリの情熱の片鱗を見れた気がした。「かぐや姫の物語」の映像特典(DVD&BD)ももらえて、大満足でした。

 

ネットでは「夢と狂気」という題名に対し、「狂気の描写が少ないのでは」という意見もある。映画を見終わってしばし考え、この「狂気」というのは、一見しただけでは分からないような場所に潜んでいるものなのだと思った。

 

夏に「風立ちぬ」を観たあと、縁あって某雑誌のジブリ特集に座談会要員として呼ばれ、「ジブリと狂気」みたいなお題が出た。「奥さんほったらかして次郎はヒドイやつだ」とか、「夢の為に戦争の道具を作るなんて狂気じみてる」といったロジックは思い浮かびつつも、なんとなく、そうじゃないような、釈然としない気持ちが残った。その後、監督のインタビュー記事などを見るにつけ、その思いは深まった。

「アニメーションを作っている人間に罪がないと思っているんですか」

 

北海道新聞の取材で宮崎さんは、「なぜ零戦を造った人間なんかを取り上げるんだと言われるが、ではアニメーションを作っている人間に罪がないと思っているんですか」と言っている。そして、「夢と狂気の王国」でも似たような話をしている。

 

「いいこと」というのは、時と場合、あるいは規模など、何かのパラメータが変わったりすると、「いいこと」と言い切れないものに変わることがある。場合によっては、「狂気」といえる何かになることもある。「戦闘機を作るなんてダメ」というのは分かりやすいけど、一方で分かりにくい狂気に対して、我々は知恵を巡らせているのか。自らの生活や行動が、狂気と無縁となぜ言い切れるのか。そういうことを、宮崎さんの言葉を聞きながら、「夢と狂気の王国」を見ながら、考えた。

 

 「もののけ姫」の公開時のインタビューか何かで宮崎さんは、「農耕」という人類の行為が「自然破壊」でもあるとしたら、我々は自分たちをどう捉えればよいか、といった問題意識を語っていた。土と一緒に生きればハッピー、と単純に考えるのは簡単だけど、本当にそうなのかどうか、よく分からない。

 

一見正しいように見える、一見素晴らしく見える何かが、狂気をはらんでいる。なんだかこれは、インターネットを見ていて自分が時おり感じるモヤモヤ感に、通じるところがある。

 

 

 

夢と狂気の王国」で一番心に残ったのは、「アニメーションの筋肉は意志だ」という宮崎さんの言葉でした。

 

「かぐや姫の物語」を観る前に「竹取物語」を読んで思ったこと

「かぐや姫の物語」の罪と罰ってなんだろう

 

11月23日に高畑勲監督の「かぐや姫の物語」が公開される。

 

元から楽しみにしていたけど、劇場で予告編を見て軽く泣いた。「絶対に見る」と心に決めた。アニメーションの幸福感というか、絵が動くということの喜びにあふれている作品に思えた。あれがセルアニメだとしたら、どうやってつくったのかぜひ知りたい。

 

最近は徐々に情報が増えて、かぐや姫が本当に美しすぎることとか、高畑監督が劇中歌の制作過程で初音ミクを使ったとか、いろいろ分かってきて楽しい。で、サイトを見ながらぼんやりと考えるのは、映画のアオリにも使われている「姫の犯した罪と罰」ってのは何なんだろうなぁということだ。

原作「竹取物語」を読んでみる

 

竹取物語はご存知のとおり、竹から女の子が生まれる! → 美人すぎて求婚者続出! 帝も参戦! → 結局誰ともくっつかず、月に帰ってしまう――っていう話の流れがあるのだけど、かぐや姫が地球に下ろされた理由として、“罪を犯した償い”という設定があるようだ。かぐや姫は、何らかの罪のために卑しい人間界に下ろされ、償いの期間が満了したので月に呼び戻されてしまったというわけ。

 

姫が犯した罪がなんだったのかは、作品には書かれていない。高畑監督はそこに目を付けて、姫の罪と罰を想像することで、かぐや姫の心の変化を読み解き、何かしらのメッセージを込めようとしているようだ。

 

恥ずかしながら自分はこういう内容をすっかり忘れてて、改めて竹取物語を読んだのだけど、確かにそうだった。そして、改めて読んだことで、竹取物語における「罪と罰」、とりわけ「罰」の意味するものは、この物語の重要なテーマをはらんでいるように思えてきた。

 

かぐや姫は罪を償うために地球に下ろされたのだけど、本人は月に帰りたくないようで、運命を悲しみ、迎えが来ても月に帰るのを嫌がる。

 

あの月の都の人は、たいそう華やかで美しくて、老いることは実はないのです。思い悩むこともありません。そのような所へ戻りましても、殊更にうれしくもございません。(サイト「古典に親しむ」の竹取物語現代語訳より

 

桃源郷なんかゴメンだね!とでもいいたげなセリフが、想像をかきたてる。きれいはきたない。水清ければ魚棲まず。何事も平穏で善良で悩みすらないパーフェクトワールドは、人の世を知ったかぐや姫にとって退屈で寂しい世界だったのかもしれない。もちろん、爺さん婆さんとの別れの悲しさとかも、あると思うけど。

 

帰りたくないかぐや姫と対照的に、月からの使者は「お勤めつらかったでしょう、さぁさぁシャバに戻りましょうね」といった感じ。彼らにとって地球は穢れた苦界なんですね。

 

面白いのが姫さま昇天のラストシーン。かぐや姫は使者から「着ると心が変わってしまう羽衣」を着せられてしまい、それまでの憂いや地球への親しみを忘れ、月人に戻ってしまう。そんな展開だったのか……全然覚えていなかった。変わってしまった姫様の喪失感が激しすぎて拙者かなり切なくなったでござる……。なんかこういう展開ってアニメでありそうだよな、うん。

「罰」について、なんとなく思ったこと

 

原作に触れて思ったのは、かぐや姫の罰というのは、月にはない「思い悩むこと」を味わう――つまり「心」を持つってことだったのかなって気がしてきた。

 

思い煩いを感じるのは心であって、月人は達観しすぎてそういう心がないために、月の環境では罰にあたる苦行を与えられない。だから人間に生まれ変わらせて、思い煩いを味わってもらい、刑期が終わればまた月人に戻す――そんなストーリーを想像したりした。

 

なんというかこの予想が皮肉なのは、かぐや姫が味わった思い煩いが主に「月に帰りたくない」だったってことだ。かぐや姫にとっては月人が「罰」として与えた「心」そのものが捨てがたいものになったというわけだ。

 

そう思うと、この竹取物語という作品が、心をもった生き物への賛歌のように思えてくる。マンガ版ナウシカが新人類を否定する感じ。じゃあ罪は一体なんだったんだろうと考えるんだけど、よく分からない。

 

所詮ニワカの感想なので、「そんな単純じゃねーんだよ!」って怒られるかもしれないが、まあとにかくそんなことを考えました。

Amazonでもポチれるパイロットの1000円万年筆「kakuno」がすげーよかった件

サラッと落書きしたりデッサンするのに万年筆がほしいなぁと思っていた。が、万年筆というものは趣味の文具という感じちょっと高い。安いのでも3000円ぐらいする。買うのを渋っていたら、こんな素敵なものが出た。

 

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こんなポップな見た目でしっかり万年筆なのだ

 

万年筆の老舗・パイロットの子供向け格安万年筆「kakuno(カクノ)」。お値段1000円ナリ。安い……! いつのまにかAmazonでも買えるようになっていた。

 

 

 

 

 

細字と中字の2種類があって、両方そろえても2000円だ。価格を抑えるために簡素なプラスチックボディを使っているようだけど、ペン先は3000円クラスのものを使っているって話もある。高級感はないけど、カラフルでカワイイ。両方買って使ってみたんだけど……めちゃくちゃ良かった。

 

万年筆の世界は全然詳しくないので、LAMYのSafariと比べてどうだとかそういう話はできません。でも、使った瞬間に「スラスラ書けるってこういうことなんだな」っていう快感があって、勝手に一人で感動してしまった。

 

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中字の方がヌラヌラ描けて好み。細かい書き込みは細字がよさげ

 

別にボールペンだってサインペンだってスラスラ書けるだろ、といわれるとそうなのだが、万年筆というのは「スラスラ」の雰囲気が違う。インクが「外に出たがっている」ような感じだ。羽のような軽さで線がサラサラサラ〜と出てきて、インクの「外にでたいよー」っていう声に合わせて自然と手が動き、リズムが生まれる。ペンを走らせるのが楽しくなってくる。なんかポロポロっとアイデアが出そうな気がする。……んなこたないか。

 

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本件と関係ないけどジョブズの映画見てきた。そこで終わんのかよっていう感じだった

 

ちなみに細字(F)と中字(M)の2種類のうち、個人的なオススメは中字です。スラスラ加減がぜんぜん違う。細字も別に良く書けるけど、中字のほうが線があふれる感じ。絵を描くことを考えてる人は細字を選びがちだと思うけど、ペン先が太いのも試してみると意外にいいと思う。

 

livedoor Blogのトップページを見て驚いたこと

転載ブログを紹介するのってありなのか?

 

知り合いのFacebookで、LINEが運営するlivedoor Blogが「.blog.jp」っていうドメインを無料提供しているときいて、それはいいなあと思いさっそく取得してみた。

 

で、livedoor Blogのトップページを見るようになったのだが、驚いた。ニュースサイトの記事や写真をまるまる転載しているようなブログ(主に2chまとめ)を、livedoor Blog編集部の「イチオシ」としてプッシュしているのである。

  

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livedoor Blog「編集部おすすめ」のニュースカテゴリのトップページより。矢印は筆者が加工

 

矢印を付けたのが転載ブログ。このとおり、常習的にイチオシしている。いろいろ見ていくと、「他社記事&写真の転載+2chの反応」といった2chまとめスタイルですらない、「単純に記事を転載しただけ」のブログまで「イチオシ」していたりする。

 

この点を、中の人に質問してみたら、こうだった。

 

 

 

著作権問題は無視してイチオシし、怒られたら消す、という理屈だと僕は理解した。あるいは、「ブログの記事はきっとブロガーが適切に権利処理してると信じてプッシュするね!」かもしれない。転載ブログが適切に権利処理をしているケースは、レアだと思うけど。ブロガーが安全に転載できる方法も聞いたが、そちらは反応がなかったので、特に転載を行うためのフローがあるわけではないようだ。

 

個人的には、彼らのこうした姿勢は、ブロガーによる悪質な転載行為を助長・支援していると思える。動画サイトに例えると、違法にアップされた映画全編を、運営者自らがオススメして拡散いるようなものだ(繰り返すけど、適切な権利処理をしているケースもあるかもしれない。が、多くは無断だと思う)。そしたら「え、そういう動画も中の人的にOKなんだ! だったら俺もパクリ動画上げよう!」って思う人、でてくるでしょ。

 

ちなみに、livedoorのサービスの利用規約「禁止行為」の項目にはこう書いてある。

 

1.4.1 禁止事由

 

利用者は、本サービス等の利用に際して、以下の行為を行ってはなりません。なお、以下の行為に該当するか否かについて、当社は、自らの判断で、その該当性を判断し認定することができます。

 

1.当社または他者の著作権、商標権、特許権、実用新案権意匠権等の知的財産権(以下「知的財産権」といいます。)を侵害する行為、または、侵害するおそれのある行為 

 

 仁義のある二次利用が好きです

 

こうした行為がさほど問題にならないのは、なぜだろう。既存メディア側が対処するのが面倒なんだろうか。あるいは全文転載されてもなお流入があって、既存メディアとブログがWin-Winの関係にある、ということだったりするのだろうか。あるいは、知らないところで転載の許諾がでているのだろうか。

 

それならそれでいいんだろうが、僕には、今のスタイルは既存メディアの価値が不当にスポイルされているとしか思えない。

 

最近はファンが勝手に作ったコンテンツを公式が黙認したり推奨したりして、コンテンツを自由に使うことでみんながハッピーになる、みたいな動きが増えてきたように思う。個人的にも、あんまり堅苦しいことはなしで、フェアユースだったりファンユース的な二次利用ができる世の中はいいなぁと思う。何でもかんでもいちいち許可がないとダメ、というのは、息苦しいし。

 

でも、やっぱりコンテンツを借用するときには、オリジナルに対する敬意や仁義がないといけないと思う。そういうものがない二次利用が蔓延すると、いつか息苦しいルールができてしまう気がする。

 

 

 

真偽不明の記事をあっさり信じてしまう思考の流れとネットの関係を考えてみた

雑誌の売り場に「ムー」が置いてあったら、読むかもしれない。

 

週刊誌に紛れ込んでいるマユツバっぽい記事も、まあ面白半分に読むかもしれない。

 

でもそれを、「あれって〇〇なんだってさ!」って人に教えるかというと、教えないと思う。教えるにしたって、「まあ週刊誌の記事なんだけどさ」みたいな枕詞がつく。多くの人がそうだったと思う。

 

ところが、Twitterfacebook、ポータルサイトのニュースコーナーといった、1つの情報プラットフォームに玉石混交のニュースが流れこんでくるネットでは、この常識がうまく働かない。

 

・Togetter「大島で報道ヘリがサイレントタイムを邪魔したというの本当か?

 

真相は知らないけど、SNS上のコメントを信じて書いた記事だと思う。で、こんな記事がまた出る。

 

「報道ヘリが伊豆大島の救助活動を邪魔している!」 ネットで拡散された情報はデマだった?(J-CAST)

 

大島でヘリが救助の邪魔しているという情報は「デマ」だったことが判明(秒刊SUNDAY)

 

ガジェ通の記事がバズった後に、J-CAST、秒刊とコンボが続くいう、いい感じの展開にワクテカせざるを得ないわけだけど、J-CASTは電話で役場に確認した上でなお「デマだった?」と自信ない感じを漂わせているところが紳士的だ。で、その記事などを引用してコタツ記事を書く秒刊が「判明」と断定してくるあたりが、すごい縮図っぽくて香ばしい。

 

紙だったら「東スポ東スポ」って分かった上で楽しんでいた。でもTwitterとかfacebookとかでシェアされるニュースは、「〇〇発の情報」って感じが薄い。いろんな記事タイトルが飛び交って、どこの記事だかよく分からないまま、人々は興味の惹かれるままにクリックして記事を読む。「読みたい記事」は自分の意志で選んでるんだけど、「読む雑誌」はあんまり選んでないし意識していない。で、「この媒体は怪しい」という身構えがないまま怪しい情報に触れてしまう。

 

もちろん、媒体を意識して身構えている人もいると思う。でも、結構な割合で、記事の中身で頭がいっぱいになっちゃう人がいる気がする。恥ずかしながら、自分もそういう時がある。面白さとかセンセーショナルさに気が奪われて、大事なことがすっぽぬけちゃうのだ。いろんなWebサイトの情報がたくさんタイムラインに入ってきて、いちいち信用度を判断するのが面倒なのも影響している気がする。

 

真偽のわからない情報を拡散するメディアというのは、タチが悪いことに、「真偽は分からないのですが……」という雰囲気を記事に盛り込まないケースが多い。そうしたほうが、読まれるからだ。単純にライターが馬鹿なケースもあるかもだけど。まあとにかく、ニュースぶっていろんなことを断定してくる。

 

そんなわけで、そろそろ、「その報道はどこのメディアの報道なのか」をよく考えた上で読んだりシェアしたりする、という当たり前といえば当たり前のことを肝に銘じるべき時代になったんではなかろうか。

 

変な情報をつかまされる場所っていうのは増え続けていて、実にカジュアルな感じで僕らの周りに寄ってきている。アフィブログ、胡散臭いミドルメディア、キュレーションサービスに巣食う悪質キュレーター……こういうのが、よく分かんない情報をコトコト煮込んだりソースロンダリングをしたりして記事を作る。それがソーシャル上に放流されたり、立派なポータルのニュースコーナーにヒョコッと現れたりする。

 

ライトなメディア、うさんくさいメディアには、ライトなりうさんくさいなりの良さや楽しさもある(もちろん根っからのクソメディアもあるけど)。サイトの属性を分かった上でネタを消化するんであれば、楽しい。分かった上で適切なアクションができるといいなぁと個人的には思う。

 

というわけで、自分が頭に置いておきたいなというポイントはこんな感じです。

 

・「頭は一般人、体はニュースサイト」みたいなメディアが今、いっぱいある

 

・そういうメディアの記事が、SNSなどを通じて、「ニュースでござる」って感じで自分たちの前に現れる

 

・なので、記事を読んで信じる前に、そのサイトがどんなサイトなのかに、思いを巡らせる

 

 

 

 

と、インターネットについていろいろ考えたりして、それを漫画にしているのがこちらになります。

 

バイナリ畑でつかまえて